新十津川町開拓史

 明治22年8月奈良県吉野郡十津川郷で大水害が発生。奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲った。
その中に「鳥も通わぬ十津川の里」と太平記にかかれた山村・十津川村があったのである。
山や谷壁がなだれ落ち渓谷をせきとめ、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように向かっていく…。

 当時、6カ村からなる十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であった。
死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha。山林の被害も甚大。
生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、その救済策が急務であった。
生活再建のため、移住が話し合われハワイなどの海外や国内の未開懇地が候補にあがった。

新たな生活地を求めて600戸、2489人が北海道への移住を決断。
「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に秘め旅立つことになった。
10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。
このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろうとしていた。
特に樺太経営とロシア南下への防備対策から、石狩平野開拓は緊急課題であった。

小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、

その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。病人や老人、子どもは囚人に背負われた。
空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。
そんな中でも、トック原野への入植準備が進められ、新しい村の名前も決められていった。
また、一致団結して開拓を成功させようと「移民誓約書」が起草された。

遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としトック原野に入植した。
明治23年6月のことであった。水害被害から10カ月、政府の保護を受けた十津川移民は、
現在につながる最初の一歩をこうして入れることとなった。